もっと自由に山仕事をしようよ。

森づくり

もっと自由に山仕事がしてみたい。自分の思った通りの山造りがしてみたい。そう思ったことはありませんか。森林組合などの事業体が行っている山仕事のほとんどが国や県や市町村の補助事業で成り立っている。だから、本当の意味での「自由な山仕事」はできないことが多いのです。

それは、国民の税金である公的資金を使って個人資産である民有林の資産価値を高める山仕事にはそれなりの理由付けが必要だからです。これまでは、森林には「災害防止」や「水源涵養」、最近では「CO2の吸収源」などの公益的機能があるので、その整備に公的資金による補助をすることに対して妥当性があると解釈されていました。したがって国や県の補助事業も「災害に強い森づくり」の旗印のもとに予算が組まれてきいました。最近は森林を皆伐することにも公的補助がありますが…(この話はまた別の機会に)。

そこそこ重労働でそこそ危険でそこそハードな(※労働環境は最近は随分改善してきています。)山仕事の最大の醍醐味と楽しみは、自分が手をかけた山が5年後、10年後に変わっていく様子を見ることやそれを想像することです。だから、本当はもっと自由に山の将来のことを考えて山仕事がしたいと思っていますし、どうやったらいい山になるかを考えたいのです。幸い私は長期管理を任された地域の山林を預かっていたので、補助事業を使いながらもその中で可能な限り自由に山造りができる環境にありました。山作業は130年以上も造り続けているガウディ―のサグラダ・ファミリアを造っているようだといつも思いながら山に通っていました。(※サグラダ・ファミリアは2026年に完成予定みたいです。)

補助事業が全て悪いわけではありませんが、補助事業とうまく共存するか、将来的にはうまく脱却しない限りは、山仕事の本当の充実感や進歩はないんだろうなと思う。補助を受けて育ったら、しっかり独立して恩返しをしないといつまでたっても大人になれませんからね。いつまでもあると思うな親と補助金である。しかしながら、現在の日本の山仕事の多くが補助事業なしでは成立していないのも事実です。「補助金はいりません」と一言うだけで自由になれるのに簡単でない。かく言う私も林業の補助制度と共存しながら山造りをしてきました。「補助金はもういりません」と言えたら気持ちいいだろうな。

アメリカの経済学者のミルトン・フリードマンという人が著書の中で、米国社会の自由社会から非自由社会への転換について『政府の介入や干渉の基本的発生要因は、善意に満ちた人々が、社会にとって善いことをしようとした結果生み出されてきた。かれらが目的の達成のために採用した方法に問題があった。すなわち、これらの人々は、善いことを達成するのに、自分たち自身のお金によってではなく、他人のお金でやろうとしたところに問題があったのです。このやり方には二つの欠点があり、その一つは、人々が他人のお金を、自分のお金ほど注意深く使うことを期待することは無理であり浪費が発生すること。第二は、他人のお金に依存する限りは、結局は権力を行使しなくてはならなくなるということです。』と書いている。………これは今の日本の林業の現場と林業行政にも当てはまるような気がします。現場の自立と行政の関与(補助)が同時進行しない限り「山仕事の自由」は獲得できません。この現状をなんとかせねば。

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